或る女



 正面0番水路に面する繁華街の一本路地を入ったところに酒場《月の涙》はある。酒の種類は、ないものはないと言わしめるほどの数を揃え、料理の評判も上々の店であった。
 店を入ると地下に下る階段があり、間口の狭さとは対照的に広い空間になっている。店の奥にはカウンター横に小さな二人がけのテーブルがあり、そこに金髪の細面の男、レオが腰掛け、琥珀色の原酒をゆらゆらと傾けながら静かに味わっていた。
「あーら、今日はお坊ちゃん一人なの? ブラッドは?」
 唐突に頭の上から声がする。見ると紫紺の高帽子の女、ヴィヴィが腰に片手を当て、紅を差した形の良い唇に笑みを浮かべながら佇んでいた。
「お前か、今日ブラッドはいない。……フリーと一緒に見回りに出かけている。僕が今日非番なだけだ」
「えー残念っ、それじゃ! ………って言いたいとこだけど、この瓶、オスト村の蒸留酒の原酒じゃん! お坊ちゃんこんなの飲んで平気なの? 私も飲んでいい?」
 どうやら高価な酒に興味を示したらしい。一人で静かに味わおうと思っていたのに、今日はとんだ厄日だなとレオは内心舌打ちをした。
「僕はもうお坊ちゃんという歳じゃないぞ……」
「ふぅん、わかった。レオだよね、名前くらい知ってるよ。あっ、すいませーん」
 ヴィヴィは忙しない店員を捕まえ、グラスとドライフルーツを注文した。レオは内心うるさいな……と心の中で呟く。
 この女との付き合いは長い。この街に来た当初、騎士団のためのねぐらを案内してもらったりと恩義も感じるところもあるが、時の経過を感じないくらい変わらない風貌――ありていにいえば美貌を維持しており、また一部の隙も見せない所作に正直得体の知れなさを感じていた。  そういえばこの女と二人きりになることが今までなかった。先日のオルガとミレッタの歓送会や騎士団のイベントにふらりと顔を出し、いつの間にか忽然といなくなっているのが常であった。そういえば、そもそもこの女に出会ったのもこの酒場だったな、と古い記憶をたぐり寄せる。
「あんたなんで一人でこんなところに来てるの?」
「うるさいな、お前にだって一人で物思いにふけりたい時もあるだろ」
「あたしはいつも一人だから……改めて思い悩んだりしないのよ、うふ!」
 レオははぁ、と短いため息をつく。この女と何を話せばいいんだ。有無を言わさず着席したが、強く押し返せば良かったと少し後悔した。
「わかった、さては恋愛の悩みでしょ」
「僕は妻帯に向いてない性格だからそれはないな」
「あら、きれいな顔してるのに残念だねー。まあ、あたしの射程範囲じゃないけど。あたしはブラッド一筋だから」
 聞いてない。レオは眉間のしわを一段と深く刻んだ。
「……でも、別に恋わずらいは相手が女だとは限らないよね。好きなのはあの背の高い弓使いでしょ?」
 レオは口をつけたばかりの蒸留酒を吹いた。気管に入りごほごほと咽せる。酒の度数が強い分、喉の奥に熱い感覚が伝わってきた。
「なんだそれ。当てずっぽうでものを言うなら帰れよ」
「だってさ、本部に行くといつもあんたが背の高い弓使い、フリーだっけ? をばっかり見つめてるじゃない? そんなの誰が見ても丸分かりだよ」
 酒の効果なのかそれ以外の要因なのかは判別できないが、レオの顔に紅が差し、声を荒げて言った。
「僕とフリーは師弟関係だ! それ以上でもそれ以下でもない」
 ヴィヴィは小首を傾げ、人差し指を口元に当てると、
「でも最近騎士団本部に遊びにいった時、訓練の後に木陰で一休みしてるの見かけたけどさ、昼寝してる弓使いに向ける眼差しは何?」
 レオはそんなところまで見られていたのかと羞恥心で耳まで赤く染まった。
「青春だね、青年っ!」
 ヴィヴィは紅の刺した唇を持ち上げ笑った。
「お前ぜったいそれ誰にもいうなよ」
 思わず口調が強めになる。ヴィヴィは満足げにレオの顔を一瞥すると、次の言葉を切り出す。
「でもさ」
 ヴィヴィはくるくるとグラスを回しながら琥珀色の蒸留酒を一気に飲み干した。
「今日会えるやつに明日も会えるだなんて思わないことだね。……別れなんて突然やってくるんだ。伝えたいことを伝えないと、後で何十年も後悔することになるよ」
 レオはヴィヴィのいつもより低めの声に一瞬たじろぐ。
「だからあたしはいつもブラッドに愛を全力で伝えてるんだけどね! ブラッドってば恥ずかしがり屋だからさ、なかなか答えが返ってこないんだけど!」
 この女の見立てが正確なのかなんなのかどんどん自分の判断が揺らぎ、レオの表情は困惑の様相を呈してきた。
「じゃ、あたしはこれで……。がんばんなよ、じゃあね!」
 ヴィヴィは後ろ手にレオに挨拶すると、階段を上がり去っていった。ドアについている高い音の鈴がカランカランと鳴る。
 なんだったんだあの女は……。嵐のような女の言動に一人疲弊しきったレオであった。僕もそろそろ帰るか――と店員を呼び会計と伝えると、金額の書いた紙の切れ端を受け取り、レオは目を疑った。
「はあ? 会計八〇〇〇ゴート⁉︎ ……くっそあの女僕にツケたな!! 奢るだなんて言ってないぞ!」
 叫び声は賑やかな店内でかき消えた。

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