彼を送る歌



はじめに



 六章は、レオがティゴル谷に到着した後、訃報を聞いたのか、
病床に間に合ったのかでルートが分かれます。
お好きな方からお読み下さい。

   ◇

「――ブラッド・ボアル率いる騎士団の初期の段階において、継承という言葉が大きな鍵となる。当該時期を支えたウォルラス・ファリオンからフリー・アルヴァロス、そしてレオ・ガッタカムまで連綿と続く関係性を鑑みることは、騎士団の組織運営の観点からも、また人間の営為の理解という意味でも肝要であろう。特にこの章では、後者二名に焦点を当て、叙述していきたい。」

『中世アクラル百年史考 ~十一世紀アクラル大陸の奇跡とその功労者~』
(別巻 人物記 二六八頁)



一 ティゴル谷へ


「────レオ、仲間になろう」
 差し伸べられたその手の温かさを、いまだに忘れられないでいる。

   ◇

「おい、もう少し速度を上げることができないのか⁉︎」
「そいつは無理だぜ旦那、これ以上速度上げたら馬が潰れちまう!」
 レオはリーヴェ修道院からティゴル谷行きの幌馬車に乗り込み、御者の背後からせき立てる声で叫んだ。馬車はガタガタと地面の起伏をなぞり、振動が荷台にも伝わる。レオは幌の端を掴み、バランスを取りながら腰を曲げ半分だけ立った状態で御者に声をかけていた。  普段であればこのような人の少ない場所から場所への馬車など出ていない。片田舎のティゴル谷への直通の馬車は、水上都市スクーレの乗り場で週一本出ているかどうかの本数であった。またリーヴェ修道院も世俗との関係を絶っており、隔絶された状態となっていたが、生活必需品の物々交換をする時のみ行商人が立ち寄る機会があった。
 レオはキーディス山脈を越え、最短距離でティゴル谷へと向かっていた。雪がない分レミントン峠は随分と歩きやすかったが、昨年の雪山の悲劇を思い出すと足取りは重かった。しばらく歩くと、恐らく修道女たちのつけたであろう聖女の道の痕跡があり、それを辿ると自他ともに認める方向音痴のレオでもなんとか山下りをすることができた。たまたま行商人が山菜と生活用品の物々交換のために馬車から品を卸していた場面に遭遇したため、ティゴル谷に直接行けるかを交渉し、無事に成立となった。このために結構な路銀を積んだが、どうせ谷に着いた後は使う機会がない。レオにとって優先すべきただ一つのことは、ティゴル谷に一分一秒でも早く到着することであった。
「……しっかしあんな田舎の村にそんなにお急ぎで……奴さん、大事な人でも待たせているのかね」
 御者は手綱を持ちながら器用に小指を立てて見せた。
「まあ、あんたが想像してるのとは違うかもしれないが、概ねそんなもんだ……だからできるだけ急いでくれ、頼む」
「仕方ねえな、俺も男だ、金額の分善処はするぜ!」
 手綱を引く手が強まる。馬の蹄と、車輪のガラガラと回る音が土埃を伴い、けたたましく鳴り響いた。

   ◇

 話は十四日ほど前に遡る。
 水上都市スクーレから王都ヴァレイに拠点を移した騎士団は、慣れない土地、新しい騎士団本部、スクーレ時代からは考えられないほど日々入団希望の申し出があり、毎日の業務をこなすだけでも慌ただしく時が過ぎていった。しかし拠を移して幾分か経過し、その忙しなさも少し落ち着きを取り戻しつつあった。レオも御多分に洩れず、新人への訓練、膨大な事務作業など、団長ブラッドの片腕として日々を過ごしていた。周囲から見ても、冷静に、着実にかつ正確に仕事を処理をする姿を見せていたが、しかし内心は、昨年ヴィヴィから聞いた、師であるフリーの病のことが頭の片隅からひとときも離れることがなかった。夜眠れぬ時はクガイブナの葉のお守りを握り締め、日々やるべきことはここにあると自分に言い聞かせ、身が引き裂かれるような気持ちをなんとか落ち着かせていた。そんな日々が経過したある日、「朝の会議のあと部屋に来い」とブラッドに個別に呼ばれた。約束した正午に差し掛かる時刻に、レオは団長室を扉を二回ノックした。
「ブラッド、僕だ」
「どうぞ」
 ブラッドはレオを部屋に招き入れた。部屋は編成や布陣を確認するためのチェスのようなボードや、遠征の方針を決めるために必要な地図類や書物が積んであった。窓から注ぐ陽光から小さな埃が舞っているのが見てとれる。編成用のボードは先ほどまでブラッドが動かしていたのか、駒が倒れていた。
「……レオ、来てくれてありがとう。仕事の途中の時間に声をかけて悪かったな」
「別に仕事はもう片付いてる。ブラッド、何だよ改まって話って。…………まあ、大方察してはいるが」
 レオはブラッドを真っ直ぐに見つめた。ブラッドはお見通しか、といつも通りの柔らかい笑みを浮かべた。
「レオの思った通りのことを今ここで言おうと思う。正直、まだ騎士団の状態は浮ついていて、落ち着かない部分も多い。ただ、レオ自体はそろそろ騎士団を離れてもいい頃だな、と思ったんだ。…………レオ、お前の心はもうここにはないだろう?」
「さすが団長、団員のことをよく理解しているじゃないか」
「何年一緒にいると思ってるんだ」
 ブラッドは目尻を下げてくしゃりと笑うと、レオは目をいつもより丸くしてブラッドに視線を返した。
「しかしまあタイミングとしては意外だ。まだ騎士団の地盤が固まり切ったわけじゃないだろ」
「……そうだな、正直に言えば、団長として今はまだレオの存在が惜しい。ただ、随分と過去の話になるが、俺もオルガやミレッタの退団で思うこともあったし、フリーのこともあった。団員が自分の望みや人生を全うすることも、大事なことだという信念は曲げていないつもりなんだ」
 ただ、とブラッドは付け加えて表情を曇らせた。
「こんなことを言いながらも、去年ヴァレイ防衛戦でお前を引き留めて、俺のわがままに付き合わせてすまなかった……本当に申し訳ないと思っている」
「防衛戦のことは気にするな。フリーなら引き返すな、進めというだろう。僕はあいつがどう思うかをいつも心の中に留めているし、あるべき姿を遂行しただけだ。ただブラッド、……本当にいいのか?」
「ああ。……レオ、お前の二十五年間という少なくない時間、騎士団に尽してくれてありがとう。本当に苦労をかけたな」
「今さら何だよ。わかったよ、その話聞き入れてやる。……しかしやれやれ、これで晴れて自由の身か。長い間こき使ってくれたもんだ」
 レオは目に笑い皺を溜めながらニヤリと笑った。珠のような肌の中性的な容姿を持った少年だった男の目元には、歳月の経過が見て取れた。
「僕の体も相当ガタがきてやがる。正直前線の戦力としてはかなり衰えがきていたから、少し安堵しているんだ。……騎士団で、僕はフリーみたいに弟子は作らなかったが、騎士団全体にあいつの教えは全て伝えたからな。僕もここでやれることはもうやり切っただろ」
「レオ……」
「僕は別れのじめじめとした涙は嫌いなんだ、師匠が待ってる。――明後日の馬車で僕は発つ。歓送会はいらない。部屋の荷物は自由に使え。――――あとブラッド! 自分を大切にしろ。お前のことを気にかけてるやつなんてごまんといることを忘れるなよ。お前が思うよりお前は一人じゃないんだからな……二十五年間、ありがとう。元気でな」
 レオはそう言って踵を返すと、街に繰り出し旅に必要な品の買い出しに出かけた。その後ろ姿を、ブラッドは目を細め感慨深く見つめていた。
「生意気だったあいつが、こんなになるとはね」
 レオと対照的に、年月の経過を一つも感じさせない不死の男は、そう呟いた。

   ◇

 馬車はゴルドア平原を軽快に走り、スクーレの北側を通り過ぎた。長年冒険者稼業をやっているからか、座り心地の悪い揺れる馬車の中でも睡魔が襲う。瞼を伏せて考え事をしていたら、脳裏にはこれまで自分が騎士団にいた時の記憶が走馬灯のように駆け巡っていった。王都防衛戦のこと、キーディス山脈越えのこと、スクーレでの日々のこと、徐々に記憶は遡り――これから今まさに会いに行こうとしている師、フリーとの別れ、そして出会いまで辿り着いた。
 この出会ってから別れるまでの九年間のこと、レオがフリーのことをどう思っているかは、少し長い話になる。



二 出会い


 幼い頃のことは忘れた、気がつけば僕はこの街にいた。この街は欲望と猜疑心で満ち満ちている。この街のやつは口癖はこうだ。
「騙される方が悪いんだよ」
 小さな頃の暮らしは大変だったと思う。一つ、僕の身を立てるのに役に立ったのは、歌と、後は容姿だろうか。生きていくのに難儀した幼少時代を乗り越え、ようやく掴み取ったギルドへの入会だった。自分の仕事を責任を持って全うすると意気揚々としており、仕事をするというプライドだけは一人前で、目指す理想と現状の落差に絶望していた時期だった。

   ◇

 がやがやと人が往来し、仕事の依頼人や団員で部屋がいっぱいになったスクーレのギルドの隅、部屋の角のうっすらと影が差す場所には、葡萄酒の入った樽や木箱が保管してあった。その樽の隅にもたれかかり、両膝を立てて座っている少年がいた。齢は十五歳の少し前だろうか。粗末な服に身を包んだ少年から垣間見える腕は痩せ細っており、栄養状態があまり良くないことが見てとれた。ギルドの人間はその少年に気づいてはいたが、まるで存在しなかったかのようにその脇を通り過ぎていった。少し離れた食事を取るためのテーブルでは、酒を片手に彼に関する噂話をしていたギルドメンバーもいた。
「あの端にいる痩せた子供は誰?」
「新入りのレオだ……歌うことしか脳のない冒険者だ」
「歌だけか。パーティ組むのはちょっとね」
「まあ、むしゃくしゃした時にいびってストレス解消するのにちょうどいいんじゃねえの」
「聞こえてるぞ……」
 レオは一人ごち呟く。自分はなんて惨めだろうと思った。
 ――「役立たず」
 ――ギルドに入って一ヶ月も満たないうちにその言葉を口々に聞き……レオの心は打ち砕かれていた。

 力が欲しかった
 一人で生きていく力が
 誰にも馬鹿にされない、自分自身の生き方に矜持が持てるようになれる力が

 ひとしきり部屋の会話に耳をそば立てていたが、聞いていて楽しい話は何ひとつなかった。その中、レオに近づいてきた二人の影があった。一人は大柄な剣闘士で、腕から隆起する筋肉がレオの顔ほどあり、顔には耳から顎にかけて直毛気味の髭を生やしている。腰からは斧を下げていた。いかめしい顔つきだが、目には柔和な光が宿っている。もう一人は、剣闘士とは対照的に小柄な魔女で、紫の長い髪の毛を縛り、頭上で輪を作って残りを垂らしている。化粧をしっかりと施したつり目の女で、手には身長ほどの杖を持っていた。大柄な男はレオに話しかけてきた。
「なあ、お前、そんな端に座って寒くないか」
「……なんの用事だよ。うるせえよ」
 レオはこの世の全ての憎しみが込めたような目で男を凝視する。
「あんた、なんて顔してんだい! ……ところであんた細いね、ちゃんとご飯食べてんのかい? こっちの机で一緒に食事でも食べなさいな」 「ミミミ、ミレッタ。それはいい考えだ。こちらもこの世の終わりみたいな顔をした子供を前に飯なんか食いたくないからよ……」
「何が狙いだ、僕はお腹なんか空いてない」
 と言い放った直後、レオの腹の虫が盛大に鳴った。ミレッタは声を上げて笑った。
「あんたの口よりお腹の方が素直だわね。痩せ我慢せずにこっちにいらっしゃいな」
「俺たちはオルガ団、団長で剣闘士のオルガと、俺の大事な大事な大事な魔女……ミレッタだ」
「……僕はレオだ。先月ギルドに加入した」
「あんた、見たところパーティ組んでないんだろう?」
「レオ、おお、俺たちと組むか? 歌が良いって他のやつからも聞いている。ちょうど自回復が使える団員が欲しかったんだよな、なあミレッタ」
 レオは思いがない申し出に面食らった。こいつら、何が狙いだ。だがレオにはこの申し出を受けなければ酒樽と友達になる日々が続くだけだろう。選択肢はひとつだった。
「……あんたたちがそういうなら、組んでやってもいいけど」
 オルガは握手をしようとしたが、レオはその手をはたいた。オルガはムッとした表情に変わったが、ミレッタはまあまあ子供がやることさね、とその場を宥めた。

 今ならオルガとミレッタが差し伸べてくれた手がどれだけ暖かく、どれだけ僕を救ったかが理解できるだろう。でもそれが分からなかった幼稚な僕は、その手すら突っぱねたんだ。

   ◇

 オルガ団としてギルドの依頼を地道にこなして半年ほど経った。
 今日の依頼は簡単で、バルクウェイ方面の山道で自生しているホワイトローズベリーを摘んでくる、というお使いのような内容だった。依頼はすぐに終わる予定だった……が、その予想を裏切られ、自分たちの手に余る魔物の襲撃を受けた。レオとオルガはその場を離れることができたが、ミレッタはオルガを庇い逃げ遅れたため、山道横の森の魔物のアジトに取り残されてしまっていた。どう打開するか考えあぐねいていたところ、バルクウェイから来た騎士団と出会い、助力を受けることとなった。その中に、のちにレオの師となる男――フリーがいた。
 その集団は、自称とはいえ騎士団を名乗るだけあった。手際よく弱点を突き、魔物を討ち取っていった。特にあの背の高い弓使いだ、一部の隙もない。レオはその男の鮮やかな戦い方に見惚れていた。「何やってるんだ! 攻撃の手を緩めるな‼︎」という男の声で現実に戻されていなければ、ずっと見ていたことであろう。
 騎士団の活躍があり、戦いはすぐに終わり、ミレッタも無事に救い出すことができた。その後、騎士団とオルガ団は営火の横で食事を取りながらお互いの状況を話した。熱くなった肉の上に塩味の効いたチーズをのせて食べる。遠征の際のとっておきのご馳走だった。口の中を火傷しそうになりながら頬張り、あっという間に腹の中に収まってしまった。
 腹ごなしのあと、ブラッドとフリーはオルガ団に勧誘を行った。オルガとミレッタは二つ返事で「入団する」と答えたが、レオは躊躇していた。その中で先ほどの鮮やかな戦い方をしていた弓使いが話をしてきた。
「お前も騎士団に入らないか?」
「冗談じゃない! 僕は力もないし、剣を振れるわけでもない。どうせまたお荷物扱いされんのがオチだ」
 集団というのはどうも苦手だ、その集団の中で優劣があればどうせまた自分は役立たず側に回るのは決まっている。臆病な自尊心がレオを支配していた。
「お前にはお前にしか出来ない戦い方があるはずだ。俺はそんなお前の力が欲しいんだ」
 フリーはレオに手を差し伸べた。

「――――レオ、仲間になろう」

 その一言から世界が、変わった。

「……約束しろ。僕をもっと強くするって……」

   ◇

 フリーは僕を強くする約束をしたけれども、最初は半信半疑だった。どうせ偽善者だろう? すぐに馬脚を表すさ。きっと最後は僕を裏切るんだろう? 仲間なんてごめんだ。信じられるのは自分だけ。そう思っていた。でも、一年たっても、二年経っても、何年経っても、あいつはずっとあいつのままだったんだ。



三 希求



 スクーレ至近にあるゴルドア平原で、いつものようにフリーとレオは訓練を行っていた。さらさらと流れる風が吹くような爽やかな天候だが、その天気に似つかわしくないほど張り詰めた緊張感が二人を取り巻いていた。フリーの鍛錬をきちんと詰んだであろう型のある規則的な身のこなしは、レオの我流が残る動きとは対照的だ。頭の高さへの攻撃が、左、左、右、左……フリーはレオの拳が飛ぶ方向を冷静に見極めその攻撃を躱していた。次は右だ……、自身の右半身を一歩後ろに下げ、その分前のめりになった体の左部分を捻り、レオへの一撃を繰り出そうとした。しかしレオはその反撃を読み切り、フリーの空いたみぞおちに拳を一発入れるのだった。レオとフリーは体格差がある。物理的な力ではレオは勝ち目がないが、レオの方が視点が低い分、フリーの死角への攻撃が繰り出しやすいのだった。一瞬たじろいだフリーであったが、
「……レオ、隙だらけだ」
 フリーは自身の体の懐に飛び込んだ弟子の背中へ手刀を打ち込んだ。レオは大きく咳き込む。背後を取られたレオは負けを認め降参し、その日の訓練は終了した。
「くそ、負けた。でも途中までは僕もいい動きをしていたと思わないか」
 レオは顔の傷を手で拭きながら得意げに瞳を輝かせ師匠に賛辞の言葉を期待した。
「ただ飛び込んだだけだろ、動き方がまだ我流すぎる。俺に合わせろ。今のままでは間合いが隙だらけになる」
 予期せぬ答えにレオは眉間に皺を寄せ抗議の念を示した。もし実践だったら、フリーの懐に入った時点で急所をつけているはずじゃないか。何より、自分は言われたことを実践しているだけだ。それで強くなれるのだろう、そして、実際に強くなっているじゃないか、そう心の中で不満を繰り返した。
「なんだよそれ、僕はフリーの言う通りにやっている」
「踏み込みすぎだ。勇敢さの取り違えは隙を作る。心の弱さが見えているよ」
 鳶色の双眸がレオを射抜く。レオは当初期待した言葉と、師が自身に向ける眼差しの落差を感じた。そしてその一言と眼差しは、レオの入団当時から比べれば強くなったという自負心を砕くには十分だった。レオは激昂に近い様子でフリーに叫ぶ。
「僕はもう弱くなんかない!」
「その認めない姿勢そのものが弱さなんだ。分かるか? レオ」
「ちくしょう。わからねぇよ!」
 強くなれば、他者より優位になれる。誰にも馬鹿にされなければ自分自身にプライドを持って生きていける。自身が一番欲しいものは強さを根底にした誇りそのものだ。レオはその矜持を少しずつ身につけていたはずだった。少なくとも、自分では。自身を否定された怒りで頭が熱に支配される。
「誰かを見返すとか、誰かを踏み倒すとか、そういうことのために力を使おうとするのはやめるんだな」
 レオの今の考えを全て見通しているかのように、師は言った。
「じゃあフリー! あんたは何のために強くなったんだよ⁉︎」
「守るためさ、あらゆるものを」
 ――――意味分かんねえ。
 この頃のレオは、フリーの、そのあらゆるものに優先する「正しさ」に反発を覚えていた。
「僕は先にスクーレに帰る! いまはあんたと話したくない」
「レオ、きっとお前は今の言葉に反発を覚えるだろう。でもこれだけは忘れないでくれ。お前がどんなことを思っても、俺はお前を見捨てない。今俺に言えるのはこれだけだ」
 レオは振り返らずスクーレの街に戻っていった。

   ◇

 レオは師の言葉を反芻しながら帰途についていた。明るい月が出ている夜空と、街の時計台が見える。空を見つめながら思考を整理する。師に認められたかった。そしてそれが打ち砕かれた。フリーに対する負の感情が現れる一方で、他者の承認がないと自身を肯定できない自分自身への腹立たしさも感情の中に付随した。
 訳がわかんねえ……。長い時間、心の中で悪態をつきすぎていたらしい。

 ――レオは、今ここがどこだか分からなくなった。

 こんな街でも僕は迷うのか…⁉︎ 地元じゃないか。自分の情けなさに腹が立つ。どうやら昔入っていたギルドの近くのような気がしている。とりあえず水路沿いに行けばどこかに辿り着けるだろ。そう思い裏路地から水路に出ようとした瞬間、叫び声がこだました。水路から魔物、モウリィマウスが現れたのだ。
「こんな街中の水路にまで魔物が来てるのか⁉︎」
 レオはその事実に驚いたが、ひとまず襲われている人を助けなければ。背負っていたハープを抱え臨戦体制に入った。そして、魔物に襲われ血を流している人影を見て、さらに驚嘆した。
 その人は、ギルドで相当にレオを虐め抜いた戦士だった。

 敵自体は大した強さではないはずだ……しかしながら、レオは単騎で戦闘をするということが初めての経験であった。騎士団は集団で各個撃破をしていく方針を取っているためだ。ここで独りと考えると、手が震え、足がすくむ。しかも自身の戦い方を否定されたばかりだ。何より、あんな奴のために僕は命をかけて戦わなければならないのか? あいつが死んだところで別に僕は困らない……あいつだって戦士だし、ここは見て見ぬふりをするか? しかし勝てばあいつを見返すことができるのか……? 様々な思いが去来した。この中で見捨てる、という選択肢はレオの良心がそれを咎めた。あらゆる可能性を模索しているうちに時間は過ぎていく。戦士は明らかに劣勢だった。
 そして、昼に聞いたフリーの言葉が脳裏に蘇ってきた。
「守るためさ、あらゆるものを」
 ――見返すんじゃねえ、守れよ、僕。
 レオはハープを抱え、路地から水路脇の道へ飛び出した。

   ◇

 昔の知り合いは劣勢どころか、腰を抜かし尻餅を突き、恐怖に怯えている。加勢を願える状況ではなかった。レオはモウリィマウスの横からハープで波状攻撃を加える。魔物はレオの存在を捉えると、長い尻尾を鞭のようにしならせ、レオを打とうとした。体を後ろにのけ反らせ、鼻の頭を掠めたが回避できた。その勢いでしゃがみ、石畳の地面を半身分転がり体制を整える。次の手は……相手の懐に飛び込むことだ。フリーの言葉がさらに蘇る。
「踏み込みすぎだ。勇敢さの取り違えは隙を作る。心の弱さが見えているよ」
 どうすりゃいいんだよ! 自分の今できる最善は飛び込んでそのまま音圧を魔物の横っ腹に直撃させることだ。しかし昼間言われたことが頭から離れない。どの選択肢を取るか、勝つのか、負けるのか。そう考えていた時、背後から声がした。

「レオ! 援護する!! 安心して間合いを詰めろ!!」

 ――フリーだった。
 
 フリーは弓を構え、魔物に照準を合わせながら叫ぶ。自身の判断に背中を押されたような気がしていた。フリーは放った矢は放物線を描き、モウリィマウスの頭上に刺さった。矢に気取られているその隙にレオは魔物の懐に入り、ハープをかき鳴らした。レオの奏でた音の圧がそのまま魔物を貫き、息絶えた。
 襲われていた戦士は自身の安全が確保されたかと思うと態度を大きくし、「テメェ、レオか、ハッ、お前なんかに助けられちまったぜ」と一言台詞を吐いて立ち去っていった。レオは一瞬腹を立てたが、こんなやつに自分の感情を持っていかれるのは時間の無駄だな、と思い直した。
 振り返るとフリーがいた。フリーは黒目がちな目を細くした。
「レオ、夕飯までに帰ってこないから心配して探しにきたんだ。大きな物音がしたから来てみたんだが……正解だったな」
「ふん、フリーなんかに助けられなくても僕は……」
 本当は心の中は不安がいっぱいで全身震えていたが、自分のプライドがそれを許さない。自分にとって最大の、張れるだけの虚勢を張った。震えが伝わらないように、自身の両手の拳を強く握りしめる。そんなレオの両肩にフリーは手を乗せ、温かい視線を向けた。
「昼間は言い過ぎたな、今の戦いは十分な攻撃と間合いだった。助けたやつ、よく知らないが……因縁があった関係なんだろ? きっと助けるのにも葛藤があったんだろう。それでも、レオは体が先に動いたんだな」
 この男、なんでもお見通しかよ。自身の師を見上げる。丸い月みたいな鳶色の目が自分を映す。目に映っているのは緊張の糸が切れ、安心して目に涙を溜めた自分だった。ダサい、ダサすぎる。でも、その涙を止めることができなかった。敵に一人で挑むのは初めてだった。フリーに見捨てられるようなことを言ったと思った。でも、この男は追ってきた。強くする、見捨てない、スクーレで約束を違えてきた大人たちとは全然違う。僕との約束をずっと大切にしてくれていることが身に沁みてわかった。
「……レオ、よく頑張ったな」
 フリーはレオの頭を撫でる。子供扱いだと今日は怒らなかった。レオは堰が決壊したかのように、泣きじゃくった。自分の弱さの克服は、自分でしか解決できない。でも、そこにフリーが寄り添ってくれることへの、絶対的な安心感を噛み締めていた。



四 伝え継ぐこと



 もうこうして何年になるのだろうか。フリーとレオは変わらずゴルドア平原で訓練を積んでいた。スクーレの騎士団本部にも訓練用の中庭があるが、なにぶん小さい。思い切って声を出し体を動かすときは街の外に出るのが一番だった。また、スクーレは人が密でなんとなく閉塞感があり、空気が澱んでいるような気がする。平原まで来れば、雨の日の後は湿り気のある土の、晴れたときは青々とした草木の匂いがし、自分が自然と一体となって生きていることへの充足感を感じられる。特に元来森の民であるフリーにとって、この平原は気に入っている場所の一つだった。

「レオ、そこまで。間合いは随分取れるようになってきたな」
 二人は組み手をぴたりと止めて、自然な立ち姿勢に戻った。フリーはいつもレオの成長した点をすぐ口にして褒める。最近はレオ自身も驚くほどの速さで実力が伸びており、師匠のその賞賛の言葉を聞くことが多くなった。しかし褒め言葉は何回聞いても、何となくくすぐったい気持ちになる。レオは照れ隠しに短い咳き込みをすると、「別にまだまだだよ」と小さな声で呟いた。二人で平原の草の上に座る。日差しが柔らかくのどかな時間だった。適度に吹く風が二人の髪を撫で、さらさらと流れる。フリーはレオの目をじっと見つめ、真剣な眼差しを向けた。
「一つ大事なことを伝えようと思う。――これからは、ブラッドさんを守ってくれ。ブラッドさんに迫る孤独に寄り添ってくれ。俺の、大事な師匠から受け継いだ教えだ。これは騎士団の中でもお前にしかできない」
 レオは思いがけない言葉に瞳を丸くした。それはフリーが大切にしていた役割であったからだ。フリーはブラッドに対して絶対的な敬愛の念を持っている。それはフリーの師、ウォルラスから引き継がれてきた思いだったのだろう。ただレオは正直、フリーのその態度は少し盲目的だとも感じていた。自分はあの昼行燈にそこまでの忠誠は誓えないし、いいところも悪いところも全部本人に忖度なしに伝えることもまた、騎士団にも、ブラッドにも必要なことだと考えていたからだ。
「僕が見てるブラッドと、フリーの見てるブラッドは違うからな……僕なりにどう支えてやれるのか考えてやってみるよ」
「……ああ! ありがとう、レオ。お前は、俺の自慢の弟子だよ」
 フリーはその答えに満足だったらしい。

   ◇

 ――騎士団の中でも僕にしかできない。
 自分がフリーにとって特別な一人であるという事実を少しの喜びの念をもって噛み締めた。しかしフリーと僕の関係は、師匠と弟子だ。
 フリーは堅物だ。フリーは僕に温かい眼差しを注いでくれている一方で、弟子としての義務や役割を果たすことを強く期待している。
 フリーにとってはただの弟子かもしれないが、いつしか僕は弟子という範疇を、師匠としての尊敬の念を超えた気持ちをフリーに抱くようになってきた。背中を見るだけじゃない、頭を撫でられるだけじゃない存在になりたい。フリーの強さも危うさもこの何年も見てきた。――それを支えられるような存在として、横に並びたいと思うのはわがままだろうか?
 ただその率直な気持ちを伝えても仕方がないと思っている。フリーにとって師匠と弟子という立場、役割は絶対的だ。それを揺るがすような正直な気持ちを吐露できる訳がない。でも、僕にとっては、フリーが師匠である前に――フリーという存在に求める役割は、フリーであるということだった。
 いつもぶれないで、ちょっと真面目すぎて、叱ってくれて、お人好しで、たまに抜けてて、手が大きくて暖かくて、濁りのない目で真っ直ぐに心を射抜いてくる――人間としてのあいつが、大好きだったんだ。

   ◇

 日もどっぷりと暮れ、騎士団の面々は寝静まる頃であった。まだ食堂の方から声が聞こえるのは、酒でも飲んでる奴がいるんだろう……。レオは寝る時に着用する薄墨色の首まであるニットと、白いボトムスに着替えていた。もうそろそろ寝ようと部屋の窓を閉めようと外に顔を出すと、中庭を通り過ぎ歩いていく黒い人影が見えた。ブラッドだ。先日のフリーとの話もあること、そういえばしばらくブラッドと二人きりで話した覚えがないことを思い出し、ブラッドの頭の上から声をかけた。
「おーい、ブラッド、昼行燈から夜遊びか?」
「うわ……‼︎ びっくりした、何だレオ。眠れないのか。一緒に羊でも数えるか?」
「何だそれ……。ブラッド、たまには二人で話そうぜ」
「……いいよ、降りてこいよ。たまには森のほうに行こうか」
「たまにも何も、ブラッドいつも森に行ってるだろ」
 吐く息が白い。レオは窓を閉め、夜は冷えるだろうと紫のニットをはおり、部屋を出てゆっくりと階段を降りていった。

   ◇

 夜の森は昼と異なる様相を見せる。昼には耳に届かないような鳴き声、例えば梟や、鈴のように鳴く虫の音など、辺りが静寂な分、多くの生命の気配がするのに気がつく。この時期、水源の近くには蛍も輝いては消えを繰り返し、ふと命の儚さを想起させるような、そんな感傷的な気分にさせられるのだった。
「団員との親睦を深めることも団長として大事だから、ちょうどいい機会だな」
 ブラッドはいつもの柔和な笑顔でレオに話しかける。
「そんなこと言って夜の森に何しに行こうとしてたんだよ……刺青を増やすつもりじゃないのか」
 ブラッドはレオから視線を外して、苦笑しながら答える。
「あれはもう増やした」
「ふーん……ブラッド、あんたのやってることは僕には自傷行為に思えるが……まあ止めやしないけどな。フリーも止めないんだろ?」
「フリーは、最初の頃は『やめて下さい』って彫っている時に押さえられていたが、最近は言わないな」
「あいつなりの気の回し方なんじゃないか。言いたいけど言わない優しさだよ。享受しろよ、ブラッド」
「心得てるよ」
 ブラッドはバツの悪そうな笑みを浮かべ、目を細めた。レオはブラッドに尋ねる。
「最近フリーとは話しているのか?」
「そうだな、フリーは主戦力だし、俺の片腕のような働き方をしてくれているから、よく話すよ。最近は『ブラッドさん、レオとも話してやってください』ってよく言う。あいつの考えてることなんてわかる。徐々にレオに自分の仕事を継がせにいってるんだろう」
 フリーの体力は全盛期を迎えたが、衰えるどころかまだ伸び代さえ見せている。退団を考える余地はなく、フリーの思惑は早急であり、杞憂のように思えた。しかしレオは思案する。
「……なあブラッド、あんたがいつかフリーを解雇する時がくるんだろうか」
「……ああ、きっと来る。俺はウォルラスの時と同じ轍を踏まないように、その時はきちんと告げなければいけない。あいつはここから解放されて、あいつの憧憬に浮かぶ村に、帰る時がきっと来るんだろうな」
 ブラッドは森の木の間から見える夜空を見つめた。レオはそれを聞いて少しうんざりとしたような表情を見せた。
「そしてきっと村で立場にがんじがらめにされるんだろ、難儀なこった。あんたたちは他人のことばっかり考えて生きてるから。もっと……そうだな、あのたまに騎士団に来る高帽子の女くらい自分の好き勝手に生きてもいいんじゃないか。我ながら言ってて極端だけどな」
 ブラッドは吹いて笑った。
「噂をするとヴィヴィって来そうだよな」
「本当に来そうだから、あまり口に出さないでおこうぜ」

   ◇

 ブラッドのこともそうだ、フリーは少しずつ少しずつ、自分がいなくなってもいいように、僕にバトンを渡していることに気がついていた。でも、全てを渡し切ったときどうなるのだろうか。それは、その時の僕には随分先のことのように思えた。



五 見送る



 また会おう、余韻を持たせたその言葉が、最後の別れの挨拶になることなんて往々にして存在する。

   ◇

 レオが騎士団に入団して、九年が経とうとしていた。周囲と度々口論をし、トラブルを起こしていた姿は過去のものとなり、心技体全てが鍛えられ、フリーの片腕として確固たる居場所を築いていた。
 一〇二〇年はブラッドによると、ティゴル谷に黒き無限の災いが現れる年であった。年が明け、街は新年祭で賑わっていたが、騎士団はいつ来るとも限らない魔物の陰を警戒していた。  そして、災厄の時が、きた。

 今回魔物が出現したティゴル谷は、フリーが憧憬を覚えてやまない、大切な故郷だった。フリーはここ数ヶ月、顔には出さないが度々うわの空というか、動揺しているのがレオには見て取れた。ティゴル谷に向かう道中も、ずっと顔色が悪い。この状況も無理のないことだ。大切に思ってやまない故郷が、壊滅するかもしれない、顔馴染みの村人の命が、既に失われているかもしれない。その回避のために騎士団が向かってはいるが、間に合わないかもしれない。フリーには壊滅したバルクウェイの町の風景が、脳裏によぎっているのだろう。
「おいフリー、顔色が悪いが……」
「ああ、大丈夫だ。心配をかけてすまない。気取られるのは失格だな」
「僕だから気づいているようなものだ、気にするな。フリー、あんたが昔見た風景がどんなものだか知らないが、十年前と比べれば、騎士団の戦力も随分上だと思う。ここまで来たんだ、守り切ろうぜ」
「レオ……ありがとう」
 フリーはクガイブナの葉のお守りを、右手で強く握りしめていた。

   ◇
 
 レオは逡巡する。自身のフリーへの想いは日増しに強くなる一方だ。今のようにフリーの片腕として騎士団で一緒に戦う日々を、幸せな時間だとすら感じていた。こうしてずっと共に寄り添っていたい。しかし、それは叶えられることのない話ということも、一方で理解していた。自分達の関係は何よりも優先して、師匠と弟子という絶対的な関係性だった。師は教えを伝え、弟子はそれを受け継ぎ、弟子はさらにその弟子にそれを伝承し……絶え間ないその営みを、巡らせていくことが第一であった。
 師匠から教えを受け継ぐということは、いつかその師匠の手を離れなければいけない。師は弟子の背中を見送り、弟子である自分は振り返らずに走り過ぎ去らなければいけない。自分達の役目を果たすということはそういうことだ。だから、いつまでもこうやって共に走ることはできない。どこかでさよならを言わなければならないことは分かりきっていた。
 そしてその別れは、いつも突然やってくるのだ。

   ◇

 騎士団一行は、目的のティゴル谷に到着した。
「マルヴェロさん、村のみんなは?」
 フリーは村の入り口で昔馴染みの村人と再会し、簡単な挨拶をした。
「あぁ……なんとか今は裏の畑に掘ってあった穴蔵に隠れて無事だ」
「よかった……」
 フリーの真っ青だった顔色に血色が戻ってきた。村人によると、緑色の大きい竜が火を吹いていたという話のようだ。十年前バルクウェイを襲った奴らに違いない。ブラッドやフリーの脳裏にバルクウェイの風景、ウォルラスの姿が蘇る。あの時にできなかった村を、人々を、仲間を守り切ること。全てはこのために、十年という短くない時間を使って準備してきたのだ。騎士団の面々は思いを一つにし、竜のいななく方向へ向かった。戦いの火蓋は、切って落とされた。

   ◇

 戦いは死闘、といっても過言ではないほど熾烈だった。幸い死者は出なかったが、竜の吐く火で火傷し全身の治療が必要な団員、尾で薙ぎ払われ、その勢いで壁にぶつかり脳震盪のような症状を起こしている団員、各人治療が必要な状態であった。治療が必要な団員を、家を提供し協力してくれる村人の家へ運び、神官や僧侶が治療に当たっている。ばたばたと慌ただしい中だが、ブラッド、フリー、レオの三人は、村の被害状況を確認するために外に出た。村の案内として、入口で再会したマルヴェロもついてきてくれた。
 村は随分と破壊されていた。村の中央の広場には倒壊した家の木材や石のブロックが散乱している。焼かれた家もあり、畑に行けば村の貴重な収入源である作物もほぼ全滅であった。
「ひどいな……」
 フリーは眉間に皺を寄せ、沈痛な面持ちで村を見渡した。
「なあに、村人の命は助かったんだ。また一から、みんなで頑張るさ。年寄りばかりだが、みんな元気だぞ」
「ええ……」
「フリーは気にせんでいい。わしらももう十分、お前に助けられた」
 フリーはマルヴェロの言葉にもうわの空だった。
 俺の役目は、果たせたのか……? 村は助かった。しかし荒れ果て、高齢の村人達だけが残る村は、今回守れたのだとしても自然に消失していくのではないか。幼い頃村に育てられ、故郷に報恩するために戦ってきたというのに。
 俺が次にすることは、何だ。フリーの中に、様々な思いが去来した。

   ◇

 マルヴェロと別れ、もう少し状況を見たいというフリーの希望のもと、レオ達は森の方まで足を運んだ。少し村の広場から離れた民家や森は無事であった。その風景に、フリーは安堵したような様子だった。
 フリーはひとしきり森を進むと、木が伐採され空が見える場所で歩みを止めた。ブラッドとレオの方へ振り返ると、いつものような穏やかな表情でこう告げた。
「さあ、スクーレの街に戻ろう。この村の災厄は回避できた」
 ――まだスクーレに帰るっていうのかよ……。レオは心の中で舌打ちし、苛立ちを覚えた。もう、フリーは騎士団での役割を全て果たしただろう。二十年という時間を騎士団に捧げ、その内の九年をかけて僕に教えを継ぎ、今まさに予言の魔物を仕留めた。全ては憧憬を覚えてやまない、この村のためなんだろう?
 フリーの望みは、どこだ? いい子ぶるなよ、わがまま言えよ。
 ――――言えないなら僕が言ってやる。別れの言葉だ。

 レオは鼓動が高まる中、息を吸い込んだ後、怒気を含んだ声で問いかけた。
「フリー……そんなに僕は頼りないか⁉︎ ダサい田舎にダサい年寄り達だけ残していくつもりかよ? この九年、僕があんたから教わってきたのは戦い方だけじゃないぞ……」
 あいつの役割、果たさせてやる。あいつの役割、僕が継いでやる。
 フリーの手を離す時が、今来たんだ。

   ◇

 騎士団は七日ほどティゴル谷に留まらせてもらった。騎士団の出発の日の朝、フリーに村の中心から少し離れた場所に呼ばれた。村の今の風景と不釣り合いなくらい、澄み切った鮮やかな、雲ひとつない青い青い空であった。
「レオ、出発前に悪いな」
「どうしたんだよ、そろそろティゴル谷を発たなければいけないんだ。湿っぽい話なら聞かないぞ」
 相変わらずの弟子の口の悪さにフリーは苦笑する。フリーはポケットから古びた瓶を出し、レオに渡した。
「レオ……餞別だ、これを持っていけ。頭に血がのぼったら掴むといいぞ。きっとお前を助けてくれる。ダサいとか言わずに受け取ってくれ」
「これは、あんたの師匠から貰ったクガイブナの葉のお守りか……? 大事にしてたやつだろ。いいのかよ」
 フリーはいつもの優しい、レオの大好きな笑顔を浮かべて言った。
「大事なのは間合い、そして引かぬ心だ。レオ、お前は俺の自慢の弟子だ。改めて騎士団を……そしてブラッドさんを守れ。生き急いで死ぬことだけはするなよ」
「分かってるよ。あ、あ……ありがとう」
 レオは別離が来るのだ、その実感を強くし、震える手を抑えるためにお守りを握りしめて、言った。
「なあフリー、あんたが谷で余生を送って、僕が騎士団での役割を終えたら……僕はまた、フリーのところに行っていいか?」
 フリーは微笑みを浮かべ、レオの大好きな声で答えた。
「もちろんだ。そんな悠長なことを言わずに近くに来たらいつでも寄るといい。茶くらいしか出せないが、歓迎しよう。また会おうな、レオ」

 それは僕が望む答えとは違ったけれど。

 フリーは僕の背中に手を振り続けた。
 僕は二度と振り返らなかった。

   ◇

 長い夢を見た。
「旦那、ティゴル谷に着いたぞ!」
 村に着いた後聞くのはあいつの訃報なのだろうか、それとも――――
 一縷の望みを託して幌馬車の荷台から降りた。



六(一) 訃報



 ティゴル谷に外部から人が来るのは珍しい。定期便の馬車ではないのを不思議に思った村人はこちらに駆け寄ってきた。簡単な自己紹介をし、この村に来た経緯を端的に伝えた。話をすると「あなたがレオさんですか。伺ってますよ、こちらへ」と村人が答え、丁寧な歓迎を受け、レオの行きたかったところへ早速案内された。
 ティゴル谷は風が強く吹く。髪がばらばらになびく。目も乾いて逆に涙が出てくる。風が強い橋の上を越えると、陽光が暖かく差し、緑が眩しく繁る場所に着いた。草木の匂いの他にも香しい花の匂いがする。


 自然に擁されるように、墓碑があった。


 レオは一歩一歩、足元の土の感触を確かめるように近づいていった。
 墓碑は、

  フリー・アルヴァロス(九八五―一〇三七)

 名前と生年のみが記された、簡素なものであった。

「一足遅かったか……」
 どくどくと脈打つ鼓動をいつも握っているクガイブナの葉のお守りを更に強く握りしめて押さえつける。瓶に括られた革の紐は、年月で色褪せていた。
 現実というのは粛然と立ちはだかる壁のようだ。
 僕はあいつに会って何を伝えたかった?
 今の近況?
 今までの感謝?
 会いに行かなかった後悔?
 あの決断した時何を考えてたか?
 物分かりのいい振りをしてフリーの手を離した。  あの僕の分別が僕自身を愚弄したのか?
 あの時僕の背中に手を振るフリーを振り返ればもっとより良い選択になったのか?
 いや、これは決まっていたことだ。こうなるしかなかった。あいつも僕も自分に課せられたものを放り出すなんていう選択肢はない。
 でも僕の師匠はこんなに小さな冷徹な灰色をした場所に収まっているわけないだろう。
 顔を見たい。
 認めたくない。
 大きな手に触れたい。
 優しく響く声が聞きたい。
 簡単にその死を受容できるわけないじゃないか。
 涙すら出ない。

 呆然と立ちすくむレオを、村人は無言で気遣いながらその様子を見ていた。

 村人はその後レオを、フリーの家に案内した。今日は泊まるところがないでしょうから、もし泊まるならご自由にどうぞ、定期的に掃除もしているので、と告げてこの場所を離れた。確かに室内は整然と片付けられていて、少し前までその家の主がいたかのような錯覚すら覚える。
 家の中は質素で、飾り付けられたものが何ひとつない。家の玄関には見慣れた弓があった。フリーの体に合わせた大きな弓。僕も弓を引かせてもらったことがあるが、体の大きさも合わないし、何より引くのに強い力が必要だったので話にならなかった。これも何年使ってたんだろうか。戦わなくなっても綺麗に磨いていた痕跡が残っていた。弓の上にうっすらと積もった埃を息で吹いた。
 寝台の横には鍵付きの机と椅子があった。フリーの体にこの机は小さすぎるだろ。でかいって大変だな。そう視線を引き出しにやると、机に鍵が挿さりっぱなしだった。

 ――不用心なやつ!

 半回転させるとがちゃりと錠の落ちる音がした。そこには素朴な字の、一通の手紙が入っていた。

 レオへ
 久しぶりだな。
 茶を用意して待ってるって言ったのに全然来なかったな。でもきっと中途半端な気持ちでここに来れなかったのだろうな。お前らしいよ。お前は騎士団での仕事を終えたらいつかここにくるだろうから、手紙を残しておく。
 騎士団の名前は片田舎にも届いているよ。ヴァレイに行ったんだってな。バルクウェイからスクーレまで、俺が騎士団で過ごした約二十年間が夢のようだ。でも夢じゃないんだよな。
 ブラッドさんは元気か? お前がきっと良き相談相手として、心を支えていたんだろうな。あの人は寂しがり屋だから。
 俺は退団してから、ずっとティゴル谷にいる。日々小さな前進しかなかったが、家を建て直し、作物を育て、高齢の村人を徐々に見送って、若い世代を育てて。素朴な日々だったがやりがいもあって楽しく過ごしていたよ。
 身長の高さと体力が取り柄なこんな俺も、黒の霧にかかってしまった。この手紙を書いている今、もう声も出せないんだ。俺はそろそろ俺自身の終わりが近づいているのが自分でもわかる。
 俺はお前に会って何を伝えたかったんだろうな。俺が伝えるよりもお前のことが聞きたいよ。騎士団のこと、レオ自身のこと、ああ、何よりも歌が聴きたいな。レオの綺麗な声、大好きなんだ。いつも隣で聴いてたからな。あれって贅沢なことだったんだな。いまだに夢を見るとハープの音色とお前の歌が聴こえてくるんだ。その度に懐かしくなって、柄じゃないが涙が出そうになる。
 まだまだお前に話したいことはたくさんあるが、長い手紙になってしまうので、この辺りで筆を置くことにする。
 レオ、お前はいつまでも自慢の弟子だ。今どんな姿をしているんだろうな。これを読んでいる頃にはきっと四十を超えているだろう? 想像がつかないな。十年以上前のお前の姿しかわからないよ。もう顔がぼんやりとしている。もう一度頭を撫でたかった。いつもみたいに子供扱いするなって怒られるかな。気の利いたことを一つくらい書きたかったが、俺じゃ上手く書けないな。
 ありがとう。よい人生だった。さようなら。

 一〇三七年 ×日 ある晴れた穏やかな日に
 フリー・アルヴァロス   

 その手紙を読んで、僕の全てのたがが弾け飛んだ気がした。絶叫した。喉の奥がからからだ。目が熱い。
 僕は今あんたのための歌なんて歌えない。
 僕はフリーの家を出て墓まで走り出した。天気は先ほどまでの穏やかな晴天から急変し、灰色の空から雨が降りしきっていた。
 墓の前まで来た。雨の日の土の匂いがする。膝から崩れ落ちて足元の土を握った。泥になった砂のジャリジャリとした感触が伝わって、地面に立てた爪の間に土が入った。乾いた唇が切れて血の味がする。涙は雨に混じって分からなくなった。
 名前を絶叫して、墓碑を抱いたけれど、ひんやりとした感触が伝わるだけだった。
 暖かい手の温もりはどこにいったんだ。

 さよならなんていうなよ。

 あんたは僕の自慢の師匠である以上に、大事な人だったよ。

 愛していたよ。

 その言葉は雨にかき消され、誰にも届くことがなかった。

 ――フリー

 もう呼んでも届くことのない名前。今一度会いたい人を呼ぶために紡いだその響きは、たとえ届かなくともその名そのものが詩となり歌となり、自身の中に刻み込まれていた。

 フリー、僕の名前を呼べよ。もう声がわからないよ。

 僕はあいつのいない世界でも居続けなくてはいけない。
 さみしくなんかない、何回さみしくなんかないと言ったところで、またさみしくなるのは決まっている。
 あんたのことをこれからも思い出して、すべてのさみしさと後悔を抱いて、僕はこれからも続く生を歩んでいくんだ。

   ◇

 レオは後日、墓碑銘に文を付け加えて彫った。
 
 墓碑銘

 フリー・アルヴァロス(九八五―一〇三七)

   彼は数多の戦いを生き抜き、一生を終えた。
   彼は使命に導かれ、意志を継ぎ、破魔の弓となりて多くのものを守り、
   善き人生を全うした。
   師よ、私が死するときまで、そして死したあとも忘れることはない。
   また会える日まで安らかに眠れ。
   彼の魂に精霊の導きがあらんことを。



六(二) 彼を送る歌



 ティゴル谷に到着し、村人に簡単な自己紹介を済ませると、「ああ、あなたがレオさんですか。いつもお伺いしています。どうぞこちらへ」と、それ以上詳細は語らず、村人は神妙な面持ちでフリーの家と思しき場所まで案内してくれた。
 フリーの家だと案内された場所は、村の中央からは少し山側に離れ、家の前に小川がせせらぐ、赤い三角屋根の質素な家だった。鳥のさえずる声がよく聞こえる。フリーはどうなっているのだろう。……そもそも、村人ももう少し状況説明があっても良くないだろうか。
 あの高帽子の女、ヴィヴィからフリーが黒の霧に罹患した話を聞いて随分と経つ。会えるだなんて思っていない。きっと家の裏手に墓でもあるんだろう。来るべき時を待ち、手は緊張で汗ばんだ。家のドアにそっと手をかけ、ノブを回そうとした――その時。
 どさりと藁の束を落とす音がした。
「……レオ⁉︎ レオなのか! 久しぶりだな、もっと顔を見せてくれ」
 耳に懐かしい、柔らかな響きの声が聞こえた。墓があると思った家の裏手から藁を運ぼうとしていた男、自分より頭二つ分以上の長身の男の姿が見える。フリーだ。

 ――――どういうことだ? 頭の混乱が収まらない。

「何だよこの師匠、元気じゃないか‼︎」

 緊張と安堵と様々な感情がないまぜになり声が裏返る。レオは悲鳴に近い声を上げた。

   ◇

「スクーレから王都ヴァレイに拠点を移したんだろ。こんな田舎までお前たちの活躍は聞こえていたぞ。レオ、本当に立派になったな」
 フリーは嬉しそうに、懐かしそうに目を細める。黒目がちな榛色の瞳はレオの会いたかったまさにその人の瞳であった。フリーの自宅で淹れたての茶を飲みながらこれまでの話をすることになり、レオは居間の椅子に腰掛け、フリーと向かい合っていた。家の中を見やると、フリーの家は飾り立てるものが何もない。その質素な家の様子は住んでいる男の内面すら感じさせるものだった。玄関には見慣れた弓と矢筒が見える。フリーは齢五十を超え、髪には白いものが混じり目尻には皺が刻まれているが、歳の割には若く見えた。ただ肌の衰えは歳月を感じ、瑞々しさは無くなっている。まあ自身も同じようなものだが。
「ティゴル谷には魔物が出てもすぐに駆除される――凄腕の守護者がいるってスクーレでも王都でも噂になってたぜ。おかげで全然ここに来る用事がなくてね。来るのが遅れちまった。守護者ってあんただろ、フリー」
 フリーは恥ずかしそうに苦笑し、右手を自身の頭に置いた。
「そんな大それたものじゃないさ……今となっては昔のことだよ。それに、恥ずかしながら、いまは病魔に蝕まれてしまった」
 右手をそのままレオの方向へ伸ばし、自身の黒の肌着を捲った。その肌に黒い霧の症状であろう黒い痣が斑となって残っていた。弓の弦を引いて硬くなった指先はそのままだが、がっしりと無骨だった手は、甲には血管と骨が浮き出て痩せ細っていた。歳月の経過に加えて病魔の影響も強く残り、自身の記憶にある師の手とは異なることに、レオは少なからず衝撃を受けた。
「そういえばあんた、黒の霧は大丈夫なのかよ……」
「ああ、病状としては小康状態と言ったところだろうか。一時期高熱が続いたが、今は熱は引いた。伝染病であるようだが、他の村人は発症していないし、人ではなく獣を媒介にするものなのかもしれないな。まあ、これは推測に過ぎないが……」
 レオは安堵の表情を浮かべた。ただ、言葉を継ごうと口を開いたらフリーに遮られた。
「ただ重ねるようだが状況は推測にしか過ぎない。この村には医者はいないから詳細も分からない……。今は外から見えないとはいえ、俺は日に日に自分が衰えていくのが分かるんだ……。黒の霧はレオにも感染するかもしれないし、何より弱っていく俺の姿をお前に見せたくはない。再会は嬉しい、もっとお前と話していたい。でも、明日、レオにはここを発ってほしい」
 レオの表情は思いがけない言葉を耳にし蒼白に変わる。同時に、言葉に尽くし難い情動が込み上げてくる。
「何だよそれ」
 フリーとの日々、フリーの言葉が走馬灯のように頭を駆け巡った。
 今のフリーの右手と、自分の記憶の右手と重なった。

「――――レオ、仲間になろう」

 そうやって僕を引き上げた手だった。

 レオは涙を抑えられなかった。それを隠すように、震わせた声を張り上げた。思わず椅子から立ち、フリーに近づき、痣の付いた右腕を掴んだ。
「馬鹿野郎! なんてことを言うんだ、格好つけんじゃねえ! フリー、このあんたの手が僕を引き上げた。スクーレで腐るしかなかった僕は、あんたに生かされたんだ。次はあんたを僕が引き上げる番だ。黒の霧なんてどうでもいい、僕はどうなったって構わない。この十六年間、僕は心の中のフリーに何度語りかけたと思う? ……どれだけあんたのところに駆けつけたかったと思う? 狂おしくてどうにかなりそうだった。あんたがくれたクガイブナの葉が僕を繋いだ! そうして乗り越えて……僕はあんたの望んだ以上に役目を果たした。僕には自負がある」
 レオは溢れる感情を抑えきれず続ける。
「僕はあんたがずっと大切だった! あんたが自分を大事にしない代わりに、愛おしく思ってやってたんだ。でもあんたには、村を守るって役割があるから……。あんたにとって村は大事なものだっただろう、僕は大切なやつの大事な選択を尊重するんだ。だからずっと繋いでいたかった、あんたの手を放したんだ」
 レオはさらに声を振るわせ、絞り出すような声で伝える。
「フリー、あんたは僕が唯一、唯一あのダサい時のままでいられる相手なんだ。あんたの看病をするのは僕の勝手なわがままだ、このまま放っておくなんてダサいからな……このまま看病されてろ、おっさん」
「おっさんはお前もだろ、レオ」
「うるさい!」
 フリーは吹き出して笑った。
「冗談だよ。おれにとってお前はあの時のままだよ。いつまでも可愛くて、自慢の弟子だ。そういうと怒られるかもしれないが。お前が俺の退団した時の年齢を上回ったなんて、感慨深いな。……レオ、長い間、よく頑張ったな」
 そう言ってフリーはレオの頭を撫でた。昔スクーレで魔物と戦った後、自分を宥めるように、慈しむように置かれた手と同じだった。

 ――あの時の僕も泣きじゃくってたが、今だって状況が変わらないじゃないか。

 涙を誤魔化すように目頭に手を添える。鼻の頭も赤くなっている気がする。
「頭撫でられる歳じゃないぞ」
 フリーはそれを聞きさらに頭を撫でる。
「大人しく撫でられてろよ。頑張ったんだから」
「……わかったよ」
 耳は赤く染まり、レオは俯き手の甲を目頭に当て、フリーに頭を傾け、言葉を続けた。
「……僕はあんたが大好きだ。これ以上ないくらい。この人生全て捧げてもいい。これがあんたに言う最後のわがままだ、側に……側にいさせてくれ」
 フリーは、十七年の全ての思いを伝え涙を見せる弟子の方に腕を伸ばし、肩を抱いた。
「レオ……分かった。レオがしたいようにしてくれればいい。話してくれて、ありがとう」

 ――その回答に、僕の気持ちへの答えはなかったけれど。
 
 レオは一緒にいてもいいという言葉が聞けただけで充分だった。

 テーブルのお茶は冷めていた。せっかく淹れてもらったのだからと、着席し一口飲んだ。乾いた喉に潤い、掠れかかった喉に声が戻った。足元に置いたハープを試奏する。
「これからあんたが寝れないくらい騎士団の話をしてやるよ。歌も毎日特等席で聴かせてやる」
「寝不足は困るな、体に悪そうだ。でもレオの隣でまた歌が聴けるのは役得だな」
「ふん、本来なら高いぞ? ありがたく聴けよ」
「本当に、口の悪さは相変わらずだ。分かった、毎日楽しみだな」
 こうして、限られた時間の共同生活が始まった。

   ◇

 レオはフリーの代わりに炊事、家事、買い物、狩り、様々な役割をこなし、献身的に尽くした。フリーも調子の良い時は家の中や、家の近くでできる仕事をこなした。
 村人たちは見慣れないレオの顔に最初は訝しがったが、フリーの話の中でたびたび登場した弟子だと知ると、心を開き、ことあるごとに気にかけてくれるようになった。フリーは村で慕われていた。今までも身の回りの世話をしに代わる代わる村人は来ていたが、ずっと付き添うことはできなかったので、レオが来たことにより村人たちも安堵したのだった。
 毎日騎士団の話、ブラッドの話、その後入った後輩の話、街の話、村の話、作った曲の話、毎日毎日尽きることがなかった。
 レオは最近よく詩を書き曲を作るようになった。ハープやオカリナ、レオの澄んだ歌声で質素なフリーの家が華やいだ。レオはハープを奏でながら言う。
「今度あんたの歌でも作ろうかな」
「やめてくれ、恥ずかしいだろ」
 フリーは顔を赤らめて即答した。

 こんな日々がずっとこの時が続けばいいのにと、祈った。



 ただ、祈りと言うものは元来長くは続かないものだった。フリーの体は徐々に硬化してきた。今まで調子が良ければ狩りもできていた腕は上がらなくなり、肩の高さまで上げるのが精一杯になっていた。歩行も徐々に厳しくなってきた。ベッドに伏せる日も長くなっていた。フリーは寝台から上半身を起こし、レオに遠慮がちに話しかけた。
「……悪いな、体まで拭いてもらって。本当に情けなくて、申し訳ない」
「何言ってんだよ。……こうしてると、入団当初によくこうやってフリーに消毒してもらってた思い出すな」
 レオは寝台横の桶にタオルを入れ、濯いだ後絞った。上半身の肌を見せているフリーの腕や肩を丁寧に拭いていった。
「ああ、お前の口の悪さが原因で古参の団員と頻繁に殴り合いに発展していた時のことだな。あの時は肝が冷えた」
「まあ、その時の恩返しだ。受け取れ。それでも、返せないものがたくさんある」
 二人は笑った。しかしその後少しの間沈黙が流れた。沈黙を破ったのは、フリーだった。フリーはたまらず吹き出した。
「ふふっ」
 レオは訝しがるような目でフリーに視線を送る。
「何だよ」
「……なんかいいな。今初めて、何も背負わない俺とお前が話している気がする。お互い、身軽になったな」
 フリーは榛色の温かい目で、レオの大好きな瞳でレオを見つめる。レオは少し顔を赤らめた、横を向いた。
「何だそれ。……今さらだな。僕はいつも、師匠っていう立場に、じゃなくて、ずっとずっとフリーに話しかけていたんだ」
 返答は思いがけない言葉だった。
「知ってたよ」
 レオの目が驚きで揺れる。揺れた後、目を細め笑った。
「なんだよ、それ。……なあ、フリー」
「なんだ?」
「抱きしめていいか」
「こんな状況でか? 恥ずかしいな」
 レオは背中からそっとフリーを抱きしめた。相変わらず、あたたかくて、お日様の匂いがする。 「しばらくこのままがいい」
 レオの小さなわがままだった。フリーは無言でレオの腕を抱きしめ返した。長い長い抱擁だった。
 フリーの家に来て幾ばくかの時間が経った。一七年の空白が埋まるような瞬間だった。

   ◇

 しかしいつかは永訣の朝が来る。それは分かりきっていたことだった。
 フリーの体調は急変し、ここ最近はずっと話ができない状態が続いていた。動けもしない。ただ何も語ることもなく、世話をする時以外は、ずっと手を繋いでいた。レオはそれだけで満足だった。
 人は赤子から大人になる時はその手を引き上げて成長する。不可能だったものが可能になるその眩しい瞬間に立ち会える喜びがある。
 ただ、大人から衰えていくまではどれだけ引き上げ掬い上げてもこぼれ落ちてしまうものがある。可能なことが不可能になるその暗闇に触れる悲しみがある。
 自分の意思の方向とは関係ない、どうしようもなく不可逆的な瞬間があることを痛感した。
 それでも手を引き上げると自分は言った。最後の最後の瞬間までその手を離したくなかった。

 もう声なんてほとんど出せない。呼吸も浅くなってきた。喉の音がひゅうひゅうと聞こえる。祈るしかないという状況はこのことを言うんだろう。
「なんだよ、まだだろ……お願いだから」
 レオはフリーの手を両手で握りしめ、祈った。
「……レ……オ」
 フリーは声を振り絞り、声にならない声でレオに話しかけた。
「無理するなよ」
「……レオ、わがままを……言っていいか」
「なんだよ」
「最後に……お前の歌が……聴きたい」
 レオの眼には涙が溜まる。何とかこぼさないようにまばたきをしないようにしたが、悪あがきだった。堰を切ったように涙が止まらなかった。
「……っ! 最後だなんていうなよ、あんたのせいで顔が涙でぐしゃぐしゃなんだ、ダサすぎてできるかよ! ……いや、やるよやる、とっておきの歌を歌ってやる。ちゃんと聴けよ」

「――レクイエムだ」

 レオは寝台の足元に置いてあったハープを手に取り、奏でた。
 歳月を感じさせない、澄み切った高音で高らかに歌う。

 ――永遠の安息を、与えてください、彼に、精霊よ、
  そして絶えることのない光が、輝きますように、彼に――

 途中でレオのハープは止まった。
 レオの目が涙で溢れる。嗚咽で声が出なくなる。
「フリー、ごめん、情けない……最後まで歌えねえ……」
 優しい鳶色の目でレオの表情を見つめる。
「ありがとう……レオ、俺のずっと大好きな……レオの声だ……レオ、お前の存在は、俺の…………一番の…………」
 フリーは渾身の力を振り絞り手をレオの方に差し伸べ、レオの頬につたった涙を拭いた。
「…………」
 震えながら差し伸べられた手をレオは右手で取り、自身の頬に寄せる。

 そして、ふっと、フリーの手は力を失った。

「――っ‼︎」 「フリー! なんだよ、最後まで言ってくれ!」
「師匠…………‼︎ おい‼︎ フリー、フリ――‼︎」
 瞼は閉じられ、その鳶色の双眸は二度とレオを映すことはなかった。
「…………フリー…………」

 もうその先の言葉を知るすべがないじゃないか。

 窓から見える空の色は、十七年前に僕とフリーがこの村で別れた時のような、鮮やかで青い青い、澄み切った空だった。



七 続く道




――あるひとつの物語が終わったとしても、それでも僕の人生は続いていく。
 季節は巡る。冬の雪に閉ざされたとしても、白色の世界の下には新芽が眠り、春の花はまた咲く。薄紅色の小さな花弁は風に乗って舞い散り、谷を彩っていた。
 時間は無常だ。誰の死や生などお構いなしに流れていく。ただ誰にでも平等に訪れる厳然たる時の経過は、心を癒やす時間に転化するのかもしれない。
 世界は移ろう。例え自身が悲しみに俯いていたとしても、それでも前を向けば世界は美しく眼前にただ広がっているのだ。

 レオはティゴル谷に残った。

 この村でフリーが抜けた穴は大きかった。今までは魔物が出てもフリー一人でほとんどを片付けてしまっていたからだ。ただ、特定の一人に依拠した組織というのは、脆い。レオは村の有志で自警団を作った。幸い、この村は狩りが得意でアーチャーの素質を持っている村人が多かった。騎士団でやっていたように、レオはこの村の人たちに、騎士団の教えを、フリーの教えを、もっともっと前から連綿と続く教えを、村の人たちに伝えていった。二年も経てば自警団は軌道に乗った。
 ある日、レオは自警団の会議を民家で終えた後、家に帰るために広場を歩いていた。急に足元に何か衝撃が来たため、足元を見ると、そこに三、四歳の子供がレオにしがみついてきていた。 「おじさん! 僕も谷の自警団に入りたい!」
 子供は真剣な眼差しでレオを見つめ、大きな声を出した。レオは相変わらず、おじさんと呼ばれるのに嫌悪感を覚えるのであった。
「じゃあおじさんって言うのをやめろ、レオさんって呼べ」
「わかったよレオおじさん」
「お前……!」
「だって本当のことでしょ」
 子供も食い下がらない。レオは観念したように答えた。
「その口の悪さを改めろよ……⁉︎ まあいい、そのやる気だけは買ってやる。得物は弓だな? まずは得物の磨き方と、敵との間合いの取り方から教えてやる。あっちの木の側に行ってろ」
「はーい」
 その一部始終を広場で見ていたティゴル谷の村長は、慌ててレオに駆け寄り、謝った。
「レオさん、子供が失礼なことを言って申し訳ない」
「大丈夫だ、僕もあれくらいの時は口が悪かった。気を悪くしていないから安心してくれ」
「それなら良かった……。レオさん、あんたは元々谷の者ではないのに、谷のためよく尽くしてくれて、わしらに返すものがなくて申し訳なくてな……」
 村長は深々と頭を下げた。レオはそれを制止し言った。
「気にするな。僕は僕の大切な人の、大切なものを守っているだけだ。これは僕の勝手な行動であって、ただのわがままだ。……できれば聞き入れてくれ」
 村長はひとしきり思案し、提案した。
「なら、せめて村の娘に世話を焼かせてくれないか……」
「やめてくれ。僕はもうそんな歳じゃないし、何より性格的に妻帯にまるで向いてない。それに、……僕の心には決まった人がいる。悪いな」

 ――僕はあんたが死んでからも、あんたと共にありたい。

 レオが谷に住んでから、墓地の方から風に運ばれて音色が聴こえるようになった。ハープ、オカリナ、歌――何より歌の高く澄み切った声は、村の誰もが今まで聴いたことのないような美しい声だった。日によって、歌の種類は違う。今日はどんな曲が流れるのか、村の人も毎日楽しみだった。
 その歌は、悲しくも優しい、何かを深く深く慈しむような旋律だった。

 レオはティゴル谷の橋を渡る。風が強く髪がなびく。橋を渡り切ると、暖かな光と自然に擁された墓地があった。――フリー・アルヴァロスの墓であった。
 レオはその墓の前に胡座を組んで座った。抱き抱えたハープで明るい和音を鳴らす。
「フリー、今日も来てやったぞ。今日も特等席であんたのために歌ってやる……。今日は冒険の歌だ、遠征の時によく歌った。懐かしいだろ。あの時のブラッド、ヨモギシダを『草だ』とか言って食べすぎて腹壊して……、傑作だったな。あの後フリーが抜けた後もブラッドは……」

 毎日尽きることのない話をしよう。



八 歌とともに



 レオがティゴル谷に移り住んで約十三年が経った。墓地からは相変わらず、まるで水上都市スクーレの時計台の鐘の音のように、正しい時刻にハープや歌の音色が聞こえてくるのだった。  少年は息を切らせて走っていた。その少年は十年前に自警団でレオにおじさんと言い放った少年だった。あの時の子供は年月を得て、ちょうどフリーが、レオが騎士団に入った歳を少し越えたくらいの年代になっていた。
 そういえば今日はいつも時間になると流れるハープの曲が聴こえない。おじさんはどこに行ったのだろう。今日は戦い方を教えるって約束した日だ。遅いな。
 少年は橋を渡り墓地へと辿り着いた。墓には黒い人影があった。

 ――見つけた!

「おーい、レオおじさん、今日は実践教えてくれるんだろ、待ち合わせ遅いよ!」
 少年は俯いて墓石に寄りかかっているレオに気づく。手元には使い込まれ、しかし磨き上げられているハープを抱えていた。
「おじさん、どうしたの? ………寝てるの……?」

 レオは眠るように息を引き取っていた。この上ない、穏やかな笑みを浮かべて。

 レオは死期を悟っていたのか、机の中から遺言が発見された。

 あまり長く書くのもダサいから端的に書くぞ、僕の遺品、ハープとオカリナとお守りはフリーの家の弓と一緒に置いておいてくれ。あいつと僕とが共に生きた証だ。墓も隣に埋めてやってくれ。ひとりじゃ、あいつが寂しがるだろ、寄り添わせてくれ。僕は永遠にあいつの横で歌い続けたいから。
 僕は充分に生きた。騎士団でのこと、その役割を終えて、最後に僕は、あいつと、あいつのいる世界を満足いくまで愛した。幸せな人生だった。
 手間をかけて悪い。よろしく頼む。

 一〇五〇年 ×日 フリーの命日にて
 レオ・ガッタカム   

 その遺言に従い、レオの遺品はフリーの家にそのまま保管された。ハープや毎日片時も離さなかったクガイブナの葉のお守りであった。生涯独身を通した彼であったが、彼が記した曲の楽譜兼日記帳には、誰かに捧げたであろう愛の歌が数多く発見された。果たして相手が誰なのかは、定かではない。


 墓碑銘
 
 レオ・ガッタカム(九九六―一〇五〇)

   彼は数多の戦いを生き抜き、一生を終えた。
   運命に巡り合い、意志を語り継ぎ、そして歌と共に時を生きた。
   愛すべき人との悲しい別離があったが、ここにまた心ひとつとなりて
   とこしえに寄り添い眠る。
   さようなら、彼の魂に精霊の導きがあらんことを



あとがきなど
人生で初めて作った小説本の再録です。書き方がわからないまま勢いよく全力で書いたので、思い出深い作品です。
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